運転手さんには、理解してほしい 働き方改革は自己犠牲との決別から始まる

    かつて日本を代表する作家ふたりが対談した際、男にとって最高の美徳は何かとの問いに「自己犠牲」と答えたというエピソードがある。

    これは「武士道とは死ぬことと見つけたり」、すなわち滅私奉公の精神であり、古い時代の日本において良しとされた観念だ。

    そんなの今どき流行らないと言う人でも、日本人ならば多かれ少なかれ、これらの考えが血肉に根ざしているもの。

    秩序を重んじ、自分勝手な振る舞いを慎む。

    誰かに迷惑をかけるくらいなら、その苦労を自分が背負う。

    自分が属する集団に対して忠実で、たとえ異なる考えを持っていても黙して従うーー。

    海外でさまざまな国籍の人に囲まれて暮らしてみるとよく分かるが、多くの日本人はこのような行動様式を自然体で身につけている一方、欧米や中華圏の人々は個人主義的な考えが強く、積極的に自己主張をするのが普通である。

    さて、終身雇用が当たり前だった昭和の時代は、会社に対する自己犠牲には一定の合理性があった。

    端的に言えば身を削る分、それ相応の見返りが得られたわけだが、現在は必ずしもそうではない。

    どれだけ組織に尽くそうが切られる時は切られるし、会社側に悪意はなくとも業績が伸びず社員を守れないことだってある。

    また、自らを傷つけるような働き方の弊害は、もはや覆い隠せなくなっている。

    会社のため、組織のため、そして何よりお客様のためーー。

    そのように考えて厳しい労働環境に気合いで耐え、無理な要求にも応じてしまうことは、ワークスタイルとして持続可能なものではない。

    そもそも、無理な働き方で生産性が落ちたりミスが生じたりすれば、会社や顧客にとってもプラスにならないのである。

    令和の世を迎え、働き方改革が叫ばれる今、自己犠牲や精神論をベースとする時代にそぐわない思考を改めるべき時が来ている。

    では、いかにして転換を図るべきかということを、ここでは筆者の体験を元に論じてみたい。

    自己犠牲の強要は誰のためにもならない

    12〜13年ほど前、某中堅出版社で平社員として働いていた頃、筆者の日課は深夜からの都内コンビニ巡りだった。

    目的は、自分たちが作っている雑誌を買い漁ること。

    当時の上司のあだ名は「鬼軍曹」で、売上を伸ばすためには手段をいとわない人であり、給料をつぎ込んででも自社本買いをすべきという考えの持ち主だったのである。

    収入の少ない自分にとって、そんなことは自己犠牲どころか自殺行為。

    そもそも100冊買ったところで、全体では実売率0.01%にも満たないわけで、無茶苦茶にもほどがあるーーといった抗議をしたところ、お金は出さなくていいから仕事外の時間で買う役をやれということになった。

    まさにブラック上司の最たるものだが、タチが悪いのは不条理なことを言いっぱなしではなく、自ら率先して手本を示すので反論しにくいことである。

    上司が給料をいくらもらっていたのかは知らないが、月平均で20万円は渡されたことを考えると、それが正しいかどうかはともかくとして覚悟のほどがうかがえた。

    ちなみにこのミッションはある時、上司がボーナスを全て使って雑誌を買い、奥さんが子どもを連れて実家に帰ってしまったことで終わりを告げたのだが、このことから学んだのは、無理は結局続かないということ。

    そして、目的のために手段はやはり選ばなければならないということだ。

    自社本買い以外にも、自分のかつての勤め先には自己犠牲を強いるさまざまな掟が存在した。

    「企画ごとにスケジュールを事前に決め、そこから遅れている者は終わるまで極力帰宅してはならない」

    「たとえ徹夜をしたとしても、翌朝の定時には必ず出社していなければならない」

    「取材予算については社長の決裁が下りるまで、各人が立て替えることとする」

    最後のひとつはとりわけ凶悪で、筆者は瞬間風速で立て替えが150万円を超えたことがあるし、取材のたびに消費者金融へ駆け込む先輩の姿も見てきている。

    これらの正当化に使われたのは、自分たちが携わる雑誌のために「多少」のことは耐えるべしという自己犠牲の喚起と、困難は自らの力で克服せよといった自力更生論。

    プレッシャーにこらえきれず、たくさんの同僚が心を病み、または身体を壊して去っていった。

    また、能力がある人ほどさっさと見切りをつけ、他社に走った。

    つまるところ、このような無茶ぶりは最終的に組織を壊し、働き手をボロボロにして、業績を伸ばすという目的も達成できない。

    ゆえに社員の自己犠牲や精神主義は会社にとって一見プラスに思えて、実は大きな反作用を生む、誰の得にもならないものというのが筆者の考えである。

    頑張ること=人生を削って働くことではない

    さて、言うまでもないことだが、前述のような犠牲を押し付ける働き方は、そもそも雇用契約や労働にまつわるさまざまな法規に反している。

    仮にルールが存在しても、守られなければ意味がないのは当たり前だ。

    その点で言えば、筆者がかつて所属していた職場は、あまりにもコンプライアンス意識が低かった。

    「まあ、いずれは問題になるだろう」と思っていたところ、労基署の監査が入って一応は改められたのだが、これは問題が起きて初めて原因解明に取り組むようなものであり、組織の対応としては下の下である。

    筆者は最近、建設業や運輸業に携わる知人・友人に取材を兼ねて話を聞くことが多いのだが、そこで気づいたのは、彼らの業界はルールが極めて厳格であるということだ。

    例えば長距離トラックであれば、過重労働を避けるために1運行当たりの上限時間が決まっている。

    また、現場監督の経験がある友人によれば、管理者はどれだけ腕に覚えがあろうがワーカーに混じって作業をしてはならず、あくまで管理に徹しなければならないという。

    いずれにせよ、「忙しいから」「人手が足りないから」といってルールを破れば、ケース次第だが重いペナルティを課され、会社が一発退場となる場合もある。

    それなら確かに、運輸業をはじめとする人材が資本の世界でコンプライアンスが徹底されるのもうなずける。

    対して、ホワイトカラーの世界というのは会社の規模や業種にもよるだろうが、まだまだルール遵守の意識が甘い。

    会社としては守っているけれど社員が自主的にしたという体裁を取り、サービス残業などを強いる話は今でも聞くし、精神論を振りかざすパワハラ上司にまつわる悩みを吐露する知人も多い。

    ややこしいことに、こういった上司は往々にして自らも組織に滅私奉公して今の地位に就いている。

    彼らにとって部下に犠牲を強いるのは、「自分がやってきたことを、なぜお前たちはできないんだ」という思いに基づく場合があるのだ。

    この手の人に対し、面と向かって物申せる人ばかりではなく、同調圧力に押されて反論できない方もきっと大勢いるだろう。

    ゆえに、ブラック上司は働き方改革が進む今もさまざまな職場で見かけるし、それを経営陣が意図的に放置していることもある。

    仕事で頑張ることと、人生や幸せを削って働くことは全く別物。

    また、努力によって可能性を広げるのはよくても、無茶苦茶な論理で不可能を可能と思い込むのは大きな過ちだ。

    経営者や管理職はこの当たり前の事柄を胸に刻み、考え方を改める必要がある。

    そして、自己犠牲や精神論を肯定する旧態依然とした働き方を捨て去り、時代に合ったワークスタイルへの転換を推し進めなければならない。

    日本企業はトップダウン型というよりは現場で問題を発見し、それを組織上部に上げていくタイプが多いと言われるが、大きな意思決定はやはり経営陣に委ねられる。

    上が変われば、みんなが変わる。

    仕事を通じてより多くの人々が充実した人生を送れるようにするために、ぜひ責任ある立場の方ほど、働き方改革に真剣に向き合っていただきたいと考える次第である。

    御堂筋あかり スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。